【サクラノ刻】のパッケージイラスト

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【サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-】の感想&考察

2023年4月8日 古城

25,805文字

ああ――刻が流れていく。
  美しいテンポを世界は刻んでいく。
その先で――
  たぶん、俺はお前に追いついたよ。
サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-
【サクラノ刻】の通常版のパッケージイラストゲーム属性:シナリオゲー
ジャンル ―― AVG
発売日  ―― 2023年02月24日
パッケージ版価格  ―― 10,780円(税込)
ダウンロード版価格 ―― 10,780円(税込)
スタッフ
シナリオすかぢ
原画いぬきら/籠目/基4
音楽松本文紀/他……
主題歌 ―― 刻ト詩(Vo.Luna)
あらすじ

天才と才人と凡人。弱き神と強き神。
幸福の先のさらに先の物語。
それこそが、桜の物語の第二幕。

神に選ばれた天才と、神に見放された才人、神に抗う凡人。
美に宿るカリスとは何か? なぜその果実は選ばれた者にしか与えられないのか?
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
因果交流の光が結ばれた世界。
芸術家は美によって、その問いに答える事が出来るのだろうか?

サクラノ詩のその後の草薙直哉を中心に語られる物語。
あの坂から、直哉と藍が弓張の街を見ながら下った最後の風景。
そこに至るまでに、多くの語られなかった物語があった。

二人の天才。

夏目圭と草薙直哉の本当の物語。
何故、彼らは死後あるいは筆を折っても、未だに人々を魅了し続ける芸術家であり続けるのか?
美の具現化そのものである画家、御桜稟。
彼女は何故、彼らが止まったその先を進もうとするのか?
氷川里奈は? 川内野優美は? 鳥谷真琴は? そして夏目藍は?
あらゆる人間の思いが交差する。

――公式サイトより引用

評価

評価おすすめ度
【サクラノ刻】の評価★★★★★
満足度
満足度87点

作品の紹介

今回は【サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-】を紹介します。

公式略称は【さくとき】です。

サクラノ詩の続編です。未プレイ者は前作からプレイしましょう。サクラノ詩を楽しめたのなら、今回紹介するサクラノ刻もおすすめできます。

前作
【サクラノ詩】のパッケージイラスト
【サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-】の感想

続きを見る

 

さて、本感想記事のタイトルには「考察」と書いてありますが、「感想&解説」という言葉のほうが適切かもしれません。

だって「考察しました(キリッ)」ってやつをやってみたかったんですもん。

ですが、気合を入れて書きましたし、時間をかけて書いています。

  • 内容を振り返る契機となる
  • 読み物として面白い
  • 新しい発見がある

そんな記事になることを願って書きました。お楽しみいただければ幸いです。

サクラノ刻の初回限定版のパッケージ画像

私が所持しているのはパッケージ版です。

攻略情報など

プレイ時間

私のプレイ時間は、ボイスをだいたい聞いて37時間ほどです。最初のエッチシーンまでは16時間ぐらいかかりました。

 

攻略情報

以下、ネタバレなしの推奨プレイ順どおりの攻略情報を掲載します。

 

 Hシーン

卑語あり。ピー音あり。アナルモザイクなし。

 

システム

難易度修正パッチバックログジャンプ
普通なしあり
備考

アウトライン

ここが素晴らしい

グラフィックが進化している

プレイしはじめてすぐに、空をうつした背景画像が登場します。何の変哲もないその風景からして、めちゃくちゃ美しくてビックリしました。
関心した部分としては、作中に登場する絵画に、きちんとイラストが用意されているシーンが多いこと。
こういう部分をごまかす作品がおおいなか、説得力をもったイラストを出すのが素晴らしかったです。
1番言いたいのは、鳥谷真琴の下着の描き込みが半端なかったこと。お尻の描写のレベルも上がっていました。

相変わらず音楽が素晴らしい

特にOPは、発売まえからドハマリしました。
現在YouTubeで66万回再生されていますが、1万回再生したのが私です。
ウソです、すみません、ちょっと盛りました。250回ぐらい再生しました。
特典のフルアレンジOPも最高でした。

ユーザーライクになった

特にテキストが顕著に変わっていたと思います。序盤から掛け合いがおもしろく、飽きることなくプレイすることができました。単語にルビをふったり、難しい言い回しを減らしたり、分かりやすい説明になるよう、気をつけてテキストが書かれていたと思います。

立ち絵の使い方

表情のきりかえが細かくなり、漫符などのコミカルな表現も追加されました。立ち絵をイスに座らせているように見せたりと、表現の幅が広がっていたと思います。

ここが惜しい

システムは便利になったが、一部不便な部分がある

システム面は「バックログ画面からのシーンジャンプ機能」が搭載されて、格段に便利になりました。
ですが、「Artemis Engine」をもちいて制作したエロゲにありがちな、右クリックでボイスが停止してしまう仕様はいただけなかったです。
私は、右クリックを押してテキストウィンドウを消去して、絵を眺めながら、ボイスを聞いていたいのです。その楽しみ方ができなかったのは、ホントに辛かった。

BGMボリューム

BGMによって、音が大きめ・小さめのパターンがあり、少し没入感がうすれた印象です。

感想

※以下ネタバレあり。既プレイであることを前提にした文章です。

第Ⅰ章「La gazza ladra」

麗華
「新しい芸術は新しい批評を必要とするの」
麗華
「新しい美には、新しい言葉が必要である。と言えばいいかしら」
麗華
「新しい美は、多くの人にとって新奇すぎる。だから、それを言葉によって、皆に発見させるのよ」

 
~中略~

麗華
「とにかく、あなたは新しい美を作りなさい。その美に言葉を添えるのは私なのだから――」

中村麗華は傲慢です。

しかし、一貫した態度、堂々とした立ちふるまいには目を見張るものがある。

芸術品の「本物」と「偽物」を見分ける審美眼は確かなものです。

家柄を誇っていて、手段を選ばずに敵を排除しようとする過激さをもちあわせていました。

 

麗華は歪んでいきます。

鳥谷紗希のクーデターにより、力をうしない、学園をおわれ、思い描いていた人生のレールから外れていくのです。

信念はなくなり、周りの人間におべっかを使うために笑うだけの日々。

心がどんどん荒んでいきました。

 

静流
「いや、えっとさ。私は麗華と仲直りしたくて……」

鳥谷静流はクールです。

飄々としていて、捉えどころのない性格をしています。

しかし、お節介で心優しい一面もある。

 

中村家と鳥谷家の確執によってあらわれた問題を解決するため、奮闘することになります。

フランスのリモージュで陶芸の技術をまなんだあと、3ヵ月を費やし、モネの花瓶の贋作 ――『雪景鵲図花瓶』をつくりあげるのです。

麗華
「素晴らしい出来よ。静流。これは本物よ!」
静流
「そ、そりゃ、素晴らしい出来でしょう。本物なのだから」
麗華
「いいえ、違うわ。素晴らしい出来だから本物だと言えるの。良くこれだけのものを作り上げたものだわ……」
静流
「っ……」
麗華
「これほどの作品……たしかに私にとって歴史的な一品だわ……間違いなく……」

花瓶をみた麗華は、今まで見たことがないほど幸せそうに微笑んでいます。

ニコニコしている麗華が可愛らしくてしょうがない。

麗華
「うれしいんだ……静流」
麗華
「だって、この花瓶には、純粋な愛がつまっているのだから……」
麗華
「これは私のための花瓶だわ」

どんどん醜く歪んでいき、何もかも信じられなくなり、「純粋で一直線だったころの自分」はもう居なくなってしまったと思っていた麗華。

しかし、花瓶から「純粋な愛」を感じとり、失われたはずの感情が蘇ってきたことから涙します。

私もつられて号泣しました。笑

 

麗華は、花瓶によって救われたのです。

静流がどういう思惑で花瓶をつくったかは関係なく、受け取り手である麗華がどう捉えたかが重要なのです。

 

しかし静流は、無邪気によろこぶ麗華をみて、騙してしまったことに対する罪悪感がわきあがってきました。

自分の感情をどう処理していいのか助言をもらうため、ニューヨークに住む草薙健一郎に会いにいくことに。

健一郎
「お前は、自分で最高傑作を作って、それをダチに見せた。そして、気むずかしいダチを認めさせた」
健一郎
「だから、うれしい。当たり前の事じゃねぇかよ!」
健一郎
「やったな! 静流!」

作品がどういう経緯でつくられたのかは関係なく、そこに込められた想い、努力、技術は本物です。

良い作品が出来上がったのなら、相手に認めてもらえたのなら、素直に喜べばいいんだと諭されます。

素直に自分の感情を受けいれることのできた静流は、たどってきた軌跡を、こう締めくくりました。

私の青春の旅は、これで終わったのだ。

と。

第Ⅱ章「Картинки с выставки」

第Ⅱ章は、ただただお気楽に、美少女ゲームらしい展開を楽しむことができました。

家に帰ったら、藍が待っていてくれて、「おかえり」と出迎えてくれる。藍がつくった鳥の天ぷらに舌鼓をうち、YABITUビールを飲む。

唐揚げとエビスビール

影響を受けやすいオタク

そうしたありふれた光景にたいする幸せが、ギュッと詰まっていました。

後半の章では、ふたたび筆をとり激動の展開へとつきすすんでいく。だからこそ、日常をえがいている第Ⅱ章には、穏やかで、温かい風景がひろがっていたと思います。

芸術にたいする「楽しさ」も表現されていて、他の章にはない輝きがありました。

 

 

第Ⅱ章では、可愛らしい学生ヒロインたちとの微笑ましいやりとりも描かれています。

彼女たちから慕われるモテモテ☆ハーレムライフが味わえるだけでも幸せです。

特に好きなのが、全員が声をそろえて「はいっ」というセリフ。うんうん。学生は素直じゃないとね。私みたいな捻くれた人間は、こういう真っ直ぐさに触れていたいのです。

直哉が「教師」という職業にたいして、やりがいや意義を感じはじめている描写も印象的でした。

 

学生ヒロインのなかでも1番のお気に入りは川内野鈴菜

普段は、上品な言葉遣いと、丁寧なものごし、どこか大人びていて気品すら感じます。

ですが、性欲に忠実な発言をしたり、「ぷくぅ……」と言いながらむくれたりと子供っぽい一面もある。

特に好きなやりとりが、ゴミの匂いを嗅ぐなうんぬんの件。

鈴菜
「に、匂いは泥棒ではありませんわ! 草薙様にとやかく言われる筋合いはありません!」
鈴菜
「だまって、とっとと私達を屋敷にあげてくださいッッ」

俺は即行で戸を閉める。

鈴菜
「なぜですのー!!」

この「なぜですのー!!」のセリフがアホっぽくてめちゃくちゃ好きです。

やはり性欲はIQを下げるのですね。

ウソかホントか、射精時の男性のIQは2になると言われています。これは「サボテン」と同等のIQらしいです。

サボテン

そう考えると、IQ200の私が普段、アホらしい感想記事を書きまくっているのは、性にまつわる記事を書いているからだと納得できますね。

はい。

 

――閑話休題――

 

普段はクールにみえる鈴菜が、直哉に関することにだけは隙をみせ、テレている場面が1番好きです。

電車内でのテレ顔は最強でしたね。

チャン・カワイよろしく「惚れてまうやろー」と叫んでしまいました。

 

鈴菜
「“ワルツ第9番”は二つの名で呼ばれています。『別れのワルツ』そして『告白』」
鈴菜
「ですが、告白であるか別れであるか、それを決めるのは他の誰でもないのだと思います」
鈴菜
「私が“ワルツ第9番”を弾く時に、その想いは“告白”ですから」
鈴菜
「別れではありません。私が奏でる音楽はいつでも告白です」

私はクラシックのなかでも、ショパンの『ワルツ 第9番』がトップクラスに好きです。

関連作である【サクラノ響】が発売するとして、鈴菜がこのワルツに込めた思いを、直哉がうけとる展開があったら泣きますね。

 

 

直哉
「君達と共にあれを完成させた時、あの作品が再び新しい色彩を発した時」
直哉
「標本の蝶は、色彩を帯びて再び飛び立ったと思った」
直哉
「その姿を見た時に――」
直哉
「俺は立ち止まったわけじゃない事」
直哉
「歩かなかったわけじゃない事」
直哉
「櫻の森の下を歩んでいた事を」
直哉
「そんな当たり前の事実に気が付かされた」

直哉たちが学生時代につくりあげた『櫻達の足跡』は、当時こそ話題になっていたものの、年月とともに風化していきます。そんなおり、ブルバギの長山香奈らによって穢されることに……。

しかし、教師となった直哉や教え子たちによって、再び美しい作品として生まれ変わることになりました。

風化しようとも、穢されようとも、再び輝くことができる。

歩くことさえ止めなければ、いつだって美しく明滅できるのです。

 

そもそも「櫻の森の下を歩む」だとか「櫻の森の上を舞う」とは、どういう意味でしょうか。

直哉は稟によって、人との交流のなかで輝く「櫻の芸術家」と称されました。であるなら「櫻の森」とは、人と人とが交流することによって輝いている世界であり、その下を歩むこと、上を舞うことの意味も分かってくるかと。

 

直哉
「圭」
直哉
「俺は、その先に行くよ」

本章の最後は、美術部員とともに夏目圭が描いた『向日葵』を見ているシーンです。

圭との想い出からぬけだし、教師として当たり前の人生を歩みはじめることの決意とともに〆られました。

第Ⅲ章-Ⅰ「Der Dichter spricht」

以前に一度出会った少女――本間心鈴が海辺にぽつねんと佇んでいました。

そんな彼女に、直哉は声をかけます。

心鈴
「空と海、私一人で堪能するには広すぎます。よろしければ、ご一緒しませんか?」

そのときの心鈴の返答があまりにもポエミーで、美しい言い回しで笑ってしまいました。

プレイし終わった今となっては、1人でいることの寂しさがあらわれている切なげなセリフだと分かるんですけどね。

 

 

徐々に仲を深めていき、動物園デートからの告白シーン。

告白され、しばらく沈黙していた心鈴は、頬を赤らめて狼狽えます。しかし、握った手は離さないまま掴んでいる。

直哉
「俺は、一生に一度しか告白はしないと決めている」
直哉
「だから戯れなんかでこんな事は言わないよ」

こんなイケてるセリフ、世界で草薙直哉か私ぐらいしか言えないじゃないですか。

オーバーヒートした心鈴は、手を握ったまま、顔を背けます。

顔を背けたまま、畳み掛けるように自分の心情を語る心鈴。

心鈴の言葉をうけて、改めて告白しなおす直哉。

夕焼けに照らせれ、シルエットになった2人は、抱きしめ合います。

夕方と夜の境目――マジックアワーの美しい景観。キスをする2人。

心鈴
「ずっとあなたのそばにいさせてください」

という、お願いのセリフとともに〆られる美しい告白シーンでした。

 

 

エッチシーン。

3つ指をついて挨拶をする古式ゆかしい作法。存在感のある乳首とアナル。そして、にゃんにゃん言わせるのは完全に“理解”っていると言わざるをえません。

イキ乱れて隠語を連発しながら叫ぶ心鈴。

壁ドンをして去っていく藍。

なかなか濃ゆい初エッチシーンでしたね。

 

ふたなりセックスやアナルセックスも描かれていましたが、私はどちらも好きです。

立ち絵で勃起差分が用意されているのは笑いました。

 

 

健一郎
「私というものを現象の様にして見ると――」
健一郎
「あたかも世界に明滅する光。美しく鳴り響く光の音節の様です」

 
~中略~

健一郎
「音は決して連続ではない」
健一郎
「だが、明滅する音の流れに、人は音楽を見る」
健一郎
「明滅というテンポの中に世界を見る」
健一郎
「明滅が無ければ、すべてが有ったとしても、人には虚無しか与えれられないでしょう」
健一郎
「明滅という音が音節となり、時が流れる事を我々に教え――、風景が流れる事を我々に教え――、そして我々は安心して世界の姿を見る事が出来るのです」
健一郎
「芸術作品とは、その様な事を我々に気が付かせてくれる契機となるものだと思います」

健一郎と礼次郎氏の会話は、なかなかどうして、味わい深いものになっていました。

人の世には、ありとあらゆるものが詰まっています。幸福や不幸、快楽や苦痛、喜びや悲しみ、美しさや醜さなどなど。

それら全てを認識しているのは“私”です。

つまり、認識されているものの集まりが世界であるならば、私はそこに属していないことになるのです。

この「世界の限界=私」は、独我論という考え方の「私」です。

 

しかし、私は確かにこの世界に実在しているはず。

それは「現象としての私」です。

この感想記事を読むことで、あなたは筆者のことを認識したでしょう。もしあなたがこの記事にコメントを書いてくださったら、私はあなたを認識することになります。

世の中には、たくさんの「現象である私」で溢れているのです。

現象である私たちが明滅しているからこそ、世界には時が流れていることが分かるのです。

第Ⅲ章-Ⅱ「kibou」

真琴
「私だって、伊達に年食ってないわ!」
真琴
「お姫さま抱っこ続けなさいよ! ぐらい言えるんだからね」

はい可愛い~。いきなり可愛い~。学生のころから年月が経って、ちょっとだけ素直になることができ、頬を赤らめながらのおねだり。

鳥谷真琴ルートを語りたいがために感想記事を書いたといっても過言ではありません。

 

 

直哉
「お前が、やりたかった事って、もっと青春っぽいもんじゃないのか?」
真琴
「今のは今ので少し青春っぽくない? 甘美系なヤツ」
真琴
「雨の中誰もいないお堂で、男女が秘密を共有するの」
真琴
「エロチックな青春物語って感じしない?」

付き合ってもいない男女が、エッチなことをするシチュエーションがドンピシャに好みです。さらに、本番セックスよりもご奉仕がメインだったので満足しました。

 

サクラノ刻セカンドファンブック

CGを載せられないので、ファンブックの表紙で代用

満たされることへの恐れと、青春にたいする渇望のはざまを彷徨う、すごく繊細で、アンニュイな雰囲気をかもしだす真琴が最高です。

月をうつす仰視の構図で、2人で手をつなぐCGの美しさたるや筆舌に尽くしがたい。

 

そもそもですよ、私は直哉たちよりも年上なんですが、無邪気に人を好きになっていたころには戻れません。

きらきらと輝いていた青春の日々は、手の届かない遠い場所にあるように感じてしまうのです。

だからこそ、それを求める羨望はおおきく、他のエピソードよりも共感できたのです。

素敵じゃないですか? 失なわれたはずの青春を、取り戻そうとするのは。

 

サクラノ刻の店舗特典(鳥谷真琴のテレホンカード)

特典テレカ

当然ながら、店舗特典には真琴のイラストを選びました。

このシーンは、初セックスシーンでしたね。

直哉
「俺は近くにいるよ」
真琴
「ううん、そんな事ない、でも、今だけでも近くに感じたい」
真琴
「私のすぐそばにいる草薙でいて」

このセリフが健気で健気で……。

直哉のことを、手の届かない存在、手に入れてはいけない存在だと思いつつも、手に入れたい、側にいて欲しいという気持ちが揺れ動いている発言です。

 

 

真琴
「私の青春ってさ――。私の青春は、何も手に入れられなかった時代の象徴で――」
真琴
「それどころか失ってばかり――」

たしかに真琴の生い立ちを考えると、喪失の多い人生だったかもしれません。

幼少期に弟と引きはなされ、親とは溝ができ、月には手が届かない。直哉の描いた『櫻日狂想』を見て救われるも、直哉がもう絵を描かなくなっていたことを知ります。直哉がふたたび筆を取るよう奮闘するも叶わず、圭の競争相手になることもできない。やがて圭は居なくなってしまい、友人とは離れ離れになる。

そうしたもろもろのエピソードが頭の中にうかび、真琴が抱えていた痛みを、私も嫌というほど感じ入りました。

だからこそ、直哉が真琴に指輪をわたして告白するシーンは感動しましたね。

直哉
「幾望の月も――
 既望の月も――」
直哉
「満月に再び戻る」
直哉
「不幸も幸福も同じだ」
直哉
「月の満ち欠けみたいなもんさ」
直哉
「だから幸福を怖がるな」
直哉
「やってくるかもしれない不幸を恐れるな」
直哉
「ちゃんと戻ってくる」
直哉
「幸福な時間だって再び」
直哉
「お前は、あの時失ったものがまだ癒えないのかもしれない」
直哉
「けど、それはいつかおれが癒やしてやる」
直哉
「少しでも欠けた月を、満月に変えてやるよ」

今までの辛かった想い出を洗い流すかのように号泣し、「すごくすごく愛してるからね!」と語る真琴が可愛かったです。

エンドロールでは、真琴が直哉の手をつかむイラストで〆られます。

学生時代とはまた違った恋愛模様がえがかれていて、最高にぶっ刺さったルートでした。

人間は誰しも「未完」であるからこそ、お互いを補いあうために寄り添うんでしょうね。

第Ⅲ章-Ⅲ「Night on Bald Mountain」

直哉
「芸術とは、芸術が自らの傍らに寄り添った瞬間――――その瞬間、はじめて自らの血が作り上げるものだと思われます」
直哉
「美が、自らに寄り添う瞬間」
直哉
「それは、長き苦悩の果てにやっと到達出来る瞬間」

直哉は、報われるか分からないからこそ「努力」には価値があるのだといいます。すべてのものに裏切られてもなお、進む意思をもつ魂にだけ、芸術の道は開け放たれていると。

「僕は才能というのは、何よりまずチャンスを掴む握力と、失敗から学べる冷静さだと思う」

――アニメ『SHIROBAKO』22話より引用

いつ巡ってくるか分からないチャンスに備えて、それを掴む準備をつづけた者だけが、成功するチャンスがあるということ。

第Ⅴ章の長山香奈は、長き苦悩をたえて進みつづけたからこそ、千年桜の想いと共鳴し、美の女神がほほえんだんだと思います。

 

放哉
「君が目指す芸術、その『弱き神』とはどの様なものだい?」
直哉
「世界の限界を超える絵画」
直哉
「私は、私の芸術をその様に捉えています」

直哉と放哉の討論により、ふたたび直哉が表舞台へと踏み出すことになります。

ここで私はこう思いました。

あ、これは止まれなくなるやつだ。

今夜は徹夜コースかな……。

第Ⅳ章「Mon panache!」

【緒言】

僕の人生はそれほど長くないだろう。

だから僕は一つのことしか目に入らない

無知な人となって仕事をするつもりだ。

 ここ数年のうちに

何がしかの仕事をやりとげてみせる。

―― Vincent Willem van Gogh

直哉がこのまま絵を描き始めるのかと思いきや、まさかまさかの圭の幼少期のエピソードがはじまりビックリしました。

中村の家では「雑種」として扱われ、離れの屋敷で本を読んで過ごしていた圭。

絵を描きはじめ、『向日葵の季節』という作品が健一郎によって認められ、宮崎絵画学校に入ります。

めきめきと上達していき、同世代では敵なしだと思っていた圭は、ある作品と出会います。

美が具現化したような存在、草薙直哉が描いた『火水』。

圭は、直哉との力量差に焦り、狼狽します。

宮崎破戒からは「そこそこの芸術家となって、人からおだてられて満足するのか」もしくは「すべてを捨てて絵を描き、化け物と対峙するのか」と、選択肢を突きつけられます。

にしてもこの宮崎破戒という爺さんはマジですげぇと思います。あんな歳になっても、ギラギラしていて、健一郎や直哉をぶっ倒そうとしているワケですからね。笑

 

――閑話休題――

 

圭は、決断をします。

「すべてを捨てて、ただ描く。描き続ける」
「ヤツが捨てなかったものの分、俺は捨てて、絵だけにすべてをつぎ込む――」
「そうすれば、あの化け物に手が届くハズだ」

と。

 

ここから、直哉と圭が出会い、ライバル宣言をするんですが、

ショタ直哉があまりにも可愛すぎて辛い。

生意気そうなツラも、屈託のない笑顔も、目付きの悪いジト目も、すべてが可愛くて危ない趣味に目覚めそうでした。

直哉
「世界を二人で目指すか――」
「まぁ、実際、目指すも何も、お前と俺が描き続けたら、その頂きにだってすぐに手が届くさ」

2人は世界の頂きを目指すことを誓い合い、空のコップで乾杯します。

しかしその数週間後に、直哉は画家としての活動をやめます。

分かってはいるんですけどね。それでもやはりこの展開は辛いですよね (´;ω;`)

 

俺は、ただヤツと共に走りたい。

走って、走って、走り続けていたい。

俺と草薙直哉は、そういう関係であるべきなんだ。

俺はそう言い聞かせ、ただ無心に、ただ描き続けた。

そこから圭は、直哉がふたたび筆を取るように、ひたすらに走り続けることになります。

 

 

健一郎
「芸術には二つの見方がある」
健一郎
「神経細胞の発火と見るか」
健一郎
「芸術の真実を見るか」
健一郎
「この二つは互いに正しくあり、そして互いに相容れない」

圭と健一郎が交流するシーン。

上記の発言は、難しくてイマイチ意味を理解しきれていないのですが、おそらく第Ⅲ章で直哉が語っていた、「表層」と「象徴」のことじゃないかと考えました。

絵をみたときに、そのときの自分の感情、想い、経験から、反射的に読みとろうとするのが「表層」で、すなわち神経細胞の発火。

絵をみたときに、その奥にひそむ意味、込められた想いを読みとろうとするのが「象徴」で、すなわち芸術の真実。

凡人は表層しか読みとれずに、天才はそこに込められたものを見ようとします。芸術がうつしだすのは人生ではなく、その観客だということですね。

もちろん、どちらも軽視してはいけない、大切なものです。

そう考えると、体をボロボロにして、精神だけで絵を描こうとしていた圭は、絵画の「象徴」こそ大事にしていたものの、「表層」を蔑ろにしていることと同義です。

だからこそ健一郎から、「肉体」も「精神」もどちらも大事にしろと説かれたのでしょう。

 

健一郎
「お前の筆には音楽がある。音楽がない絵画など、標本の蝶にすぎない」
健一郎
「死んだ蝶が再び飛び立つには、テンポが必要なんだ」
健一郎
「旋律と詩が必要なんだよ」

健一郎はバイクの後ろに圭をのせ、二人乗りタンデムをしながら語ります。

絵画には「旋律」と「詩」が必要なのだと。

 

圭は、流れゆく風景をみて、流れゆく音楽を聞きながら、世界と旋律を感じとります。

同じ風景と音楽がそろう瞬間はありません。一瞬一瞬、違った表情を世界は見せているのです。

バイクに乗っていて流れていく風景と音楽は、その瞬間にしか味わうことができないからこそ、大切なものなのです。

つまりこの世界は、比類ないものの連なりで出来ている「奇跡」の塊のようなものなのです。

人間も同様です。二度と同じ瞬間などない奇跡の連なりのなかで、反射をしあって明滅しているのです。

こんなにも「奇跡」で溢れているのに、人はそれを簡単に見失います。

だからこそ、それを伝える必要があるのです。

旋律と詩によって。

決して言葉にはできない大切なもの――世界のありようを表す方法、誰かに届ける方法が、旋律と詩なのです。

 

 

ミサゴは後頭部から頸部のあたりに、すこし長くのびた羽根――冠羽かんうがあります。

心鈴の師匠である圭は、羽飾りに見えるそれを“心意気”とよびました。

作中で直哉が補足しているとおり、シラノ・ド・ベルジュラックにでてくる「C'est mon panache!=それは私の心意気だ」という一節から来ているんでしょう。

シラノ・ド・ベルジュラック

主役であるシラノは、いつも羽飾りのついた帽子をかぶっていました。

そんな彼が死の間際に言ったセリフです。死は何もかもを奪ってしまうが、羽飾りだけはもっていく――つまり、私の「心意気」だけは誰も奪うことはできないと告げたのです。

 

圭は2本の向日葵を描きます。

それは、圭自身であり、圭の目指した背中をあらわします。

それは、直哉にむけて描かれたものでした。

それは、圭の生涯のすべてが詰め込まれた作品でした。

 

ああ――風景が流れていく。

素晴らしき風景達。

俺の生は、すべての流れゆくものによって、満たされていたんだ。

だから、その先で――

直哉――

たぶん、俺はお前に追いついたよ。

今度はお前が走り出す番だ。

 

鳥肌がブワーッと立ちましたよ。

発売前から何回も何回も公式サイトで見ていたフレーズに似ているものが、ここでようやく出てくるんですから。

公式サイトのフレーズ自体は、直哉の言葉にも思えますけどね。

第Ⅴ章
「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」

我々はどこから来たのか

我々は何者か

我々はどこへ行くのか

直哉がふたたび奔りだすためには、稟や里奈や心鈴の存在は必要不可欠でした。

というのも、ながらく何の実績もあげていない人間の作品は、観衆から見向きもしてもらえないからです。

稟がプラティヌ・エポラールを返上して、さらに世界的に知名度のたかい里奈や心鈴が参戦したことにより、直哉の復活するステージが整えられました。

直哉がクソ長い筆をもって、壇上にたつ姿にはめっちゃワクワクしましたよ。

 

 

香奈
「努力? 才能? 美の化け物? 聞き飽きている。こちとら、そういうヤツらを子供の時から見てるんだよ」
香奈
「私が、私の才能に絶望してどのくらいの時間が経ったと思う? 私が、私の努力に絶望してどのぐらいの時間が経ったと思う?」
香奈
「私が、化け物どもとの差を見続けてどのくらい経ったと思う?」
香奈
「私の芸術を舐めるな!」
香奈
「私には私の芸術がある! それは如何なる者であろうと穢す事は出来ない」

恩田放哉から、凡人はこの対決にふさわしくないから辞退しろと迫られ、長山香奈はキレます。

それは、彼女の長年の苦しみと、想いが詰め込まれたような悲痛な叫びでした。

あまりに痛快な語り口に、清々しい気分にもなりました。

他人の感想をみてみると、長山香奈に共感している人をたくさん目にしました。天才ばかりのこの作品において、凡人であること、凡人でありながらも天才に抗いつづけるその姿には、心が動かされるのですよね、やはり。

 

香奈
「天才を殺すのはいつでも我々凡人だ!」

大衆の心を理解しているからこそ、世界は愚鈍な眼によって覆われていることを痛感しているからこそ、天才では絶対に至れない方法で、アリア・ホー・インクこと氷川里奈に勝利します。

 

 

直哉
「悪くねぇよ」
直哉
「まるで、世界で一番だって言わんばかりの輝きをしている」

これは、香奈の幼少期のエピソード。

教室で絵を描いて、1人でその世界に閉じこもっている長山香奈。

しかしクラスの男子生徒からノートをとりあげられ、バカにされます。

そいつらを一喝して追い払ったのが草薙直哉です。

そのときに上記のセリフを発します。

もしかしたら香奈が、自分の「美」を信じ続けていられるのは、直哉の言葉があったからかなぁとも思いました。

だって自分1人で紡いでいた世界を、はじめて誰かに肯定してもらえたのですから。

しかもそれが、天才と呼ばれている画家なのですから。

直哉
「んじゃな。デブメガネ。互いに、もう少しぐらい絵を磨こうぜ」
香奈
「だからデブメガネじゃないっ。わ、私は香奈!」
香奈
「長山香奈!」

自分の世界に閉じこもっていたはずの香奈は、はじめて他人に自分のことを伝えました。

このときから香奈は、直哉のことを追い続けていたのでしょう。

 

香奈
「私は天才草薙直哉の前に立っている」

美の女神がほほえむ瞬間は、いつやってくるのか分かりません。しかし香奈には、長年秘めつづけた想いが千年桜と共鳴するかたちで、それが降り立ちます。

凡人を超越したその力は、香奈の体を蝕みます。ついには筋繊維が断裂しました。苦しそうに顔をゆがめ、涙をうかべながらも、香奈はこう言いました。

香奈
「美の限界とは……私…そのものの…限界でなければ……なりません」
香奈
「腕がなくなったとしても関係ない……だって腕が私なのではないから」
香奈
「足がなくなったとしても関係ない……だって足が私なのではない」
香奈
「私とは、ここにあり続ける精神であり、そしてこのキャンバスに刻まれるものなのです!!」

それは、ひたすら自分の美を信じ、奔りつづけた香奈のあり方そのものでした。

香奈
「いいな」
香奈
「これなんですよ」
香奈
「これが私の憧れだった」

長山香奈は笑います。

このためだけに、この瞬間のためだけに奔りつづけたのですから。

香奈がすべてをかけてこの場に立っていることをうけ直哉も泣きそうになります。

直哉
「たしかに、お前は無敵だよ」
直哉
「だけどさ。香奈。俺は一筋縄じゃいかないぜ」
直哉
「櫻の芸術家。お前らがそう呼ぶ俺は、才能でどうにかなる様な芸術家じゃねぇからな」

ここで「香奈」って呼ぶのズルすぎません?

一連の流れがうつくしくて、香奈の一言一言が感情をゆさぶってきて、涙腺崩壊するのをひたすら耐えていましたよ私は。

 

 

第Ⅴ章のクライマックス。直哉と稟の対決は、それこそ少年漫画的な熱血展開でしたね。

トーマス、明石、藍に手助けしてもらって、会場まで駆けつけます。

直哉にもボイスが実装されていて、ちょっとビックリしましたよ。

 

圭は言います。世界を正しく見る視線があるとしたら、一つは圭の視点で、もう一つは直哉の視線だと。

「俺は捨てる芸術家」
「お前は集める芸術家」

対になっているのです。

圭が生涯のすべてを賭けてまで描いた向日葵にこたえるには、ありとあらゆる人の想いや痛みをうけとめて、それを絵画に昇華するしかありません。

だからこそ直哉は「夢水」をつかい、血だらけになりながらも、絵を完成させたのです。

「ファンタジーな力で絵を完成させてモヤモヤする」という否定の言葉も見かけますが、決して他力本願ではなく、あらゆる人の痛みをうけいれ、それを芸術に昇華できることこそ直哉の力なのです。

 

芸術家は、死に意義を与えることができます。意義があれば、死を了解することができるのです。

過去に直哉は『櫻日狂想』をえがいて、水菜との別れをうけいれ鎮魂の意としました。

そして健一郎は『横たわる櫻』をえがいて、水菜の死を絵画のなかに閉じこめました。さらに、直哉に描いてもらった『櫻六相図』によって、自身の死を絵画のなかに閉じこめます。健一郎と水菜は『櫻七相図』によって、永遠のなかに閉じこめられたのです。彼らの死は、絵画を通じて了解されました。

絵画には様々なものを閉じ込めることができ、見た者によってそれが再び蘇るのです。

 

――閑話休題――

 

稟は、具現化能力によって、伯奇神社の誓いによって、命をけずりながらも美に忠実な絵画をうみだします。稟のいうところの「強き神」です。

たくさんの人が注目している最高の舞台で、稟と直哉の作品が並びます。

それは、弱き神と強き神、2人の絵が交流し、世界を映しだした瞬間だったのでしょうか。

比類なき一瞬の美が、それを見たおおくの人の心のなかで花開いたのでした。

炎

櫻ではじまった絵画は、向日葵によってその焼身を終えました。

王子の心臓は、ツバメのもとに届いたのでしょうね。

ありとあらゆる想いをつめこんだ絵画が消失する、一瞬の最高の輝き。

それは瞬間的ではあるけれど、心のなかに永遠に残るもの。

込められた想いの一つ一つは小さな音なのかもしれませんが、それが重なり合うことで旋律になるのです。

流れゆく刻の重なりが、詩となるのです。

 

それにしても、この場面にムービー演出を入れるのは憎たらしい。笑

ホントなら、じっくりと眺めていたいほどに描き込まれたイラストが止めどなく流れていきます。その光景は、まるで焼失している絵画を眺めているよう。

今までのストーリーが映像とともに頭のなかを駆けめぐり、まるでその瞬間に直哉とリンクしたような、会場にいた人と一体になったような気分でした。

 

「素晴らしかったです……ありがとう。こんな作品を残してくれて」
直哉
「作品は残らなかったよ」
「いいえ、確実に残りましたよ」
直哉
「そう言ってもらえると、素直に嬉しいよ。稟」
「ええ、すごいと思うよ。なおくん」

と言ったあと、稟が笑顔になります。

ずっと無表情だった稟が、やっと笑顔を向けてくれたのです。

この笑顔を見たら泣くでしょ。彼女がどんな思いでこれまで絵画をうみだしてきたのか考えちゃうじゃないですか。

幼少期は、絶対的な美のもちぬしであるがゆえに、誰とも交流することができなかった。理解されることがなかった。だからこそ直哉との因果的交流を夢見ていた。

力が戻ってからは、幸福の王子の心臓をツバメのもとへ届けるために、苦しみながら奔りつづけていた。

それらの想いが、報われた瞬間だったんじゃないかと思いました。

 

――閑話休題――

 

直哉は懐かしい日々を思い返します。

しかしそれは懐かしくもありながら、ここにある日々。

今もなお、直哉とともにある日々なのでした。

自分を満たしてくれていた全てのものに対して彼は言います。

 

――ありがとう。

 

と。

第Ⅵ章「櫻ノ詩ト刻」

ここまで綺麗な言葉をつかい、好きだという気持ちを表してきました。

しかし最後にそれをぶっ壊してしまうかもしれません。

 

第Ⅵ章はエピローグだし、穏やかな気持ちで読み終わるだろうなぁと思っていました。

が、ある一言によって、ダメージを受けることに。

 

それは、長山香奈が鳥谷真琴のことを酔った勢いで「手懐けた」と言ったシーン。

「あ、これはヤバい」と思いました。

このままいくと、私のなかで怒りが膨れあがっていき、爆発してしまう。

 

私は「異性愛」にも「同性愛」にも優劣がなく、同じ重さのものだと捉えています。

そういう考えのもと件のセリフをみると、どこぞの男が「酔った勢いで鳥谷真琴とセックスして堕としてやったぜ」と言っているのと同様なのです。

いや、分かっていますよ。この世界線では直哉と藍が結婚していて、真琴とは何の関係も持っていないことは。

ですが、ユーザーの私からしたら、最後の最後に「寝取られビデオレター」が送られてきたような気分になったんですよ。笑

 

落ち着け。落ち着いて座禅をくみ、目を静かにとじて、深く呼吸をしよう。

えーっと、直哉はどうしていたっけ。

瞑想する人

たしか、意識と意識のあいだにあるもの――「未発」を感じ取ればいいんだっけ。

そして存在と意識の「ゼロ・ポイント」を探ると。

………………

…………

……

いや探れねぇよ!

なんだよ「ゼロ・ポイント」って。

探ったことねぇし、何が何だか分かんねーよ。

あぁ駄目だ。私には「無」になることができない。

そもそも瞑想とかしたことないし、無になるどころか、雑念しか浮かんでこねぇ。

ということで、一旦ゲームのプレイをやめて、ブレイクタイムをはさみました。

 

 

プレイ再開。

直哉と片貝が、缶チューハイを片手に、一緒に歩いているシーン。

うんうん、良いよねこういう光景、と仏のような顔つきで頷きながら話に耳を傾けます。

するとどうでしょう。実は片貝は、とある研究で「特許」をいくつか取得した凄いヤツだったと判明します。

以下、当時の私のプレイメモです。
 

φ(..) メモメモ

 
おい、片貝! おまえ、嘘だよな!?

おまえまで俺を置いていくのか。

くすぶり続けているのは俺だけかよ。

 
情緒不安定になっていた私は、片貝にも噛みついていました。笑

こうは言っていますが、本心から羨んでいるわけではありません。

私は、傍から見たらクソみたいな人生を送っていますが、それなりに幸福に生きていますから。

いやでも良かったよ片貝。幸せになってくれよ片貝。

ディア・マイフレンド。

 

 

最後の最後、依瑠直哉の3人で手をつないでいるCGにグッときました。

そしてエンディング。前作の主題歌である「櫻ノ詩」が流れはじめます。

イラストがスクロールしていくのですが、恩田寧のうしろで、放哉先生が穏やかな表情で微笑んでいる。

この構図は卑怯すぎません?

美によって苦しめられた才人が、美によって救われたことが表されているよう。

険がとれた、優しい顔つきを見ることができて嬉しかったです。

 

ラストには、圭と直哉のツーショット。

圭が消えて「fin」の文字がでてきます。

素晴らしいエンディングでした。

 

 

余談ですが、「藍=I」だったり「圭=K」だったり「依瑠=L」だったり、アルファベットを彷彿とさせる名前が並んでいますよね。

ここに「J」が入れば、綺麗にアルファベット順に並べることができます。

第Ⅴ章で、坂本さんが直哉のことを「ジュニアJr.」と呼んでいたので、ジュニアJr.の「J」かもしれません。

んで、これらを並べると「IJKL」になるわけです。

これはつまり「をJKが得る」という【サクラノ響】の内容を表す暗号だったんですよ。

何を言ってんだ………………?…こいつ……

©集英社/荒木飛呂彦

冗談は置いておいて、【サクラノ響】では学生ヒロインとのイチャラブに期待しております。

まとめ

永遠の相とは、永遠の現在だといえます。

ウィトゲンシュタインの「永遠の相の下」は、我々は死を経験出来ない。経験出来ないものは永遠に来ない。つまり今を生きる者は永遠の世界で生きている事と同じである、というアクロバティックでありながら単純明快な思想です。

素晴らしき日々 公式ビジュアルアーカイヴ

たとえば「死」は経験できないことです。誰にでも死は訪れますが、死んだらどうなるのかを経験した人はいません。

経験できないことは、語ることができません。

語ることができることだけ、世界に生じうる事態のすべてを集めたものが、永遠の相のもとに見られた世界です。

永遠の相のもとに見られた世界には、語ることのできない事態は存在しないので、死は存在しません。

今を生きる者は、死の存在しない世界、永遠の世界を生きているのです。

 

永遠の相のもとに見られた世界は、事態のすべてが集まっているだけです。それぞれの事象に良い・・悪い・・もありません。

つまり世界の外側――己の認識次第で、世界の見え方が変わるということ。いかなる事態をも「奇跡」として見るのです。我々はすでに満たされた世界に生きているのです。

芸術作品は「世界の外側=語ることのできない神秘的なもの」を表現する手段です。

神秘的なものは、語ろうとすれば語ろうとするほどに、その神秘性が薄れていきます。

それが作中でいうところの「無駄なおしゃべりは身体を濁らすんだよ……」ということですね。

世界の外側、語ることのできないものは「示す」しかないのです。

その方法が、絵画であり、詩であり、音楽なのです。

それを受け取ったものは、比類ない瞬間を味わうことができるのです。

 

私なりに簡単な考察しましたが、的はずれなことは言っていないと信じたい。笑

もし何か記述のおかしい部分がありましたら、コメント欄にてご指摘いただければ幸いです。

 

 

長文記事をお読みいただきありがとうございました。

書ききれなかったところもいっぱいあります。

  • 氷川ルリヲの雅号「ア・ロウアワーキウイ」の語感が好きすぎること。訳すと「生のキウイ時間」になるのも最高に意味不明すぎて良き。
  • 長山香奈が、柊ノノ未に「少なくとも私にとっては価値がある作品ばかりです!」と言われて泣き出したシーンに感動したこと。
  • 夏目藍の「私より長生きしてくれ」というセリフの切なさ。

などなど。

言いたいことを全部書くと、あまりにも長くなってしまうのでバッサリとカットしました。

少しでも読み物として面白ければ、少しでも感じ入るものがあったのなら幸いです。

SNSやブログでのシェアもウェルカムです。

 

真面目に文章を書いていたはずなんですが、長時間の作業のすえに頭がおかしくなっていき、いつもの感想記事のようなテンションになってしまいました。

最後に、書こうと思って踏みとどまっていたクソネタを昇華して〆たいと思います。

 

島田紳助
『明石家さんま』と初めて会うたときな……こいつ頭おかしいんかと思うたもん
島田紳助
ぜったい覚◯剤やってるやろこいつって
島田紳助
なんで24時間明るいねん。あいつ24時間明るかってんで
後輩芸人
そういうイメージありますね
島田紳助
ここだけの話やけどな、明石家さんまは『躁鬱』やねん
後輩芸人
え?
島田紳助
小学校4年生のときにな、5分だけ『鬱』になったらしい。そっから『躁』がずっと続いてんねん
後輩芸人
永遠の『躁』ってコト!?

パッケージ版

ダウンロード版

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